序 章  伝統とビジョンの接点、それが原点 多角化・高度化する業務展開 そして、次ぎのフィールドへ
データ ヒストリー 終 章 もどる

伝統とビジョンの接点、それが原点
たとえば40年に渡る伝統と21世紀をにらんだビジョン。
たとえば酪農家の視点と技術者の視点。
たとえば手作りの精神と最先端情報のキャッチ。
酪農における歴史や基礎と未来構想のあらゆる接点に北原電牧が存在する

 

電気技師資格獲得から開けた創業の道

 北原電牧は、先代社長・北原鉱介の電気事業主任技術者資格検定第一種取得時に、既に創業を開始していたといっても過言でないだろう。

 昭和20年。先代は、新潟の科学工業薬品製造業日本ソーダ鰍ノ勤務していた。元来何事にも夢中になって取込む性格で、その上負けん気の人一倍強かった彼は、この資格取得に果敢にチャレンジする。当時この資格は、難関中の難関と称されるほど高度で、合格率も非常に低いものだった。しかし、彼は見事その資格を手中に収めたのである。


 その頃国内でもそ資格を持っている人はまだ少なく、彼の勤める会社にも、数えるほどしかいなかった。当然、彼の企業における位置付けは格段に高いものになる。しかし、彼は満足しなかった。「何かしてみたい。このままでは発展性がない。」一念発起した彼は、新潟から北海道由仁町に移住。これまでの経験を生かし、農業用資材の販売・修理業を開始した。これが北原電牧の前身北原電気製作所の誕生である。 
 

 
北原電気は、トランスやモーターの販売を業務とし、急速に電化が進む酪農業界に歩調を合わせるように発展、次第に地域に浸透してゆく。その一方で、先代の心の中には既に次なる構想が芽生えていた。米国での酪農業に普及しはじめた電気牧柵の北海道への普及である。以前から発明や考案を得意としていた彼にとって電気牧柵の製作は、まさに自分の実力を試す絶好の機会であったといえるだろう。事業の傍ら、米国からは参考となる文献を取り寄せ、彼は実験を重ねてゆく。やがてアイデアと技術の結晶「電牧器」が完成したのである。

 やっとの思いで完成した電牧器。厳しい公的規制を一つ一つクリアしながら、自転車の荷台やトラックに積み酪農家を一軒一軒売り歩く日々が続いた。「牛がショックで死ぬのでは?」「放牧の効果は?」酪農家から寄せられる相次ぐ疑問。当初の壁は酪農家たちの戸惑いであった。


 当時を振り返って書いた彼の手記にこんな一節がある。『北海道の端から端まで毎日出張した。そして最初は飼い犬に(電牧を))触れさせ、次ぎに牛馬といった順序でテストして、やっと納得してもらいかえるという次第だった。それでも後日、”今まで子供に牛の世話をさせていたため勉強の時間がないと泣かれてもどうしようもなかったが、これでようやっと子供を牛から解放することができた”といった感謝の手紙をもらったときはうれしかった』
 
   幾度も実験を重ね、その安全性と合理性、利便性を説明する。どんなに遠くまでも出かけていく。彼の地道な努力は、やがて先進的な酪農家たちの理解と賛同を得、「電牧器」は爆発的なニーズを勝ち得たのである。

 

道はけっして平坦ではなかった

 昭和28年1月。高まるニーズときめこまかなサービス体制の確立を目指し、先代社長北原鉱介は、札幌へ進出。北原電牧株式会社を正式に設立する。事業は当初の由仁町から札幌、道央圏、さらに全道へと発展し、彼の研究開発にもさらに磨きがかかっていった。

 札幌進出を果たした同年、北原電牧にもうひとつ喜ばしい出来事がおとづれた。オーム技術賞の受賞。一般には大学の研究者に与えられることの多いこの名誉ある賞を生まれたての企業が獲得したのである。昭和40年。事業は多様化の兆しを見せ始める。それまでの電牧に対し、牧場規模の「大型化が進んだことで比較的管理が楽なバラ線なども作られるようになってきた。酪農家たちのニーズへの柔軟かつ速やかな対応。今に息づくこの企業姿勢は設立当初から時代時代を駆け抜けた社長始め社員の努力が、築かれてきたといえるだろう。事業規模も、この頃から少しづつ膨らみ始める。

昭和44年。自社内にあった工場を丘珠鉄工団地に移転。従業員や商品項目の増加にともない同年46年には千歳に移転する。事業は年間3,000トンもの鋼材出荷するに至り、また活動拠点も北海道から東北へ、さらに全国へとよりワイドに力強く広がっていった。またこの年、全国中小企業センター賞(北海道地区)をも受賞。名実共に酪農王国北海道を代表する企業となったのである

 

創業時からの理念は、今も脈々と息づいている

   電牧から牧柵・さらにさまざまな酪農用品の開発、販売と時代の進展にともない北原電牧鰍フ事業内容はより高度化、専門化してゆく。そんな事業の一環として昭和45年、社はスチールサイロの製造開発に取り組みことになった。

 しかし、米国からの情報を十二分に取り入れ、入念な試験を行ったのにも拘わらず、当初の製品は若干の問題点を抱え、開発の余地があるものとなっていた。この再開発の矢先、先代が急死、急きょ現社長が就任することとなる。若干22歳。すべてが未知の世界に飛びこんだ彼の最初の仕事となったのは、スチールサイロに関するクレーム処理。そしてその改良であった。    

 サイレージを搬出するアンローダの改良は、サイレージの性質上非常に難を極めるものであった。しかし、北原電牧持ち前の反骨精神のもと、実験に継ぐ実験、改良に継ぐ改良を繰り返し、国内初の本格的なアンローダが完成。内外より高い評価を得るに至ったのである。 

 以降、一日も早く仕事を覚えたいという社長の思いが通じてか、社は新たなる発展を始める。昭和59年、社長の大学でのコンピュータ専攻のノウハウを活かした自動給餌システム「プログラムフィード」を発表。酪農とコンピュータの融合による新しい技術の誕生である。労力の削減とコストダウンを実現したこのシステムは、北海道拓殖銀行(現在は北洋銀行に業務移行)から「どさんこ技術開発奨励賞」をも受賞する。さらにその後、パソコンソフトの開発、酪農用品・施設機器の開発と、企業は時代の1歩先を行く姿勢を保持しながら着実な発展を遂げてゆく。

 発明好きの先代が電気事業主任技術者の資格を得てから44年。「研究開発の精神」「お客様のニーズに即応する事業展開」という基本理念は創業時から全く変わることなく、今も社の姿勢の中に脈々と息づいている。だからこそ、北海道はもとより全国に至る酪農用品関連業界の中でも、絶えずトップをキープできるまでに成長してきたのだろう。北原電牧株式会社。偉業は今日もその社史に新たな1ページを刻むべく、活発な企業活動を展開している